イードの日におしゃれをしたシリア難民の少女 COURTESY OF THE ROAD
イスラム教の断食月ラマダンの終了を祝う「イード・フィトル」は、ムスリム(イスラム教徒)たちにとって最も大切な祝祭の一つだ。ザータリ難民キャンプで暮らすシリア人たちもまた、故郷での盛大な祝宴に思いを馳せつつ、つつましやかに大事な慣習を続けるのだった。
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ザータリ難民キャンプに祝祭を知らせるのぼりがはためき、子供たちは空高く飛ぶ夢を見る。「イード・フィトル(ラマダン明けの祝祭)」には、「遠く離れた家族の姿も見えるほど、高く高く舞い上がる」という意味がある。
キャンプで避難生活を送るシリア難民たちにとっても、イードは待ち遠しい祝日であり、故郷に思いを馳せる日でもある。
アフマド・アル・カティビ(25)は、イードに対する複雑な思いを次のように語った。
「シリアにいたころは、イードの日に遊園地に行ったり、新しい服や花火を買ってもらったりしたものです。難民キャンプにいても、もちろんイードはわくわくしますが、いまだにシリアに残る家族のことを想うと、心から幸せな気持ちにはなれません」
イードの初日には、朝起きて礼拝し、いとこたちがやってくるのを待つ。午後の礼拝の後は、親戚の家を訪ねる。
「シリアでは父と一緒に礼拝した後、母と朝食の準備をしました。朝食後は、祖父の家を訪問し、ゆっくり一緒に過ごした後、友達や親戚の家を訪ね歩きました。
遊園地は笑顔の子供たちであふれていました」
キャンプのなかのお店でおもちゃを選ぶ子どもたち COURTESY OF THE ROAD
ウム・カセム(56)は、シリアとザータリ難民キャンプでのイードの違いをこんなふうに嘆いた。
「昔は、みんな助け合って生きていたけれど、ここでは残念ながらみんな自分の暮らしで精いっぱい。シリアでは、イードの数日前から、子供たちの服やお菓子、おもちゃの買い物に夫と一緒に出かけたものだよ。イードの初日は、孫たちが朝早くから遊びに来ていた。私が笑顔で迎えると、孫たちは遊園地に行くお小遣いをせがんだものさ。
でも、ここでは同じようにはいかないね。孫たちにはもう4年も会っていないし、近所の人はだれも訪ねてきてくれない」
ムハンマド・アル・ナブルシは、シリアでは父から受け継いだ農園を経営していた。経済的にも恵まれていたので、イードの日には子供たちを喜ばせるためにたくさんの買い物をしたという。
「でも、残念ながら、ここでは仕事がないので、家族が最低限必要なものさえも手に入れることができません。イードのための新しい服やおもちゃさえ買ってやることができないのです。
イードの日が来ても、難民キャンプでできるのは、親戚を訪問するぐらいです。
子供たちに何もしてやれないのは辛い。早くシリアに戻って、失われた時間の埋め合わせをしたいです」
イードの思い出は人それぞれだが、その日に故郷シリアがいっそう恋しくなるのは、すべてのシリア難民に共通しているようだ。
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イードが近づくと、ザータリ難民キャンプ最大の市場「シャンゼリゼ通り」には、ラマダン明けを祝うためのよそいきの洋服やおいしそうなお菓子が並び、祝宴を心待ちにする人々の顔には笑顔があふれる。動画にて、年に一度のお祭りに沸くザータリの様子をお届けする。
※動画のなかで人々が口にしているのは、「Kullu am wa antum bi-khair(よい1年となりますように)」というラマダン明けの挨拶。
The Road ×クーリエ・ジャポンの記事はこちらからもご覧いただけます。
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イスラム歴の「ラマダン」が5月27日に始まりました。ラマダンのほぼ一ヶ月間、イスラム教徒は日の出から日の入りまで(約16時間)飲食を控えます。
日暮れ以降に親類などの互いの家を訪問し合って共に時間を過ごしたり、食事などをふるまったりと、イスラム教徒にとっては特別な一ヶ月です。
JENは、ザータリ難民キャンプで、女性グループの活動をサポートしています。これは、キャンプ内コミュニティで、お互いに助け合って生きていく環境づくりに貢献するためです。女性たちはグループになって、たとえば、古着からリサイクル品を作りコミュニティの中でそれをシェアするなど、様々な活動をおこなっています。
今日お伝えするのは、そんな女性グループのある活動です。
ラマダン中に、3~4人の女性たちが集まって調理をし、お年寄り、障がい者、ひとり親家庭等、ご近所のこういった家庭に食事を届けました。活動に参加した人の声をきいてみました。
クズマさんは、7人の子どものお母さん。調理グループのメンバーです。
「私たち3人で6家族、25人分のカプサ(アラビア風ピラフ)を作りました。一緒に料理するのは楽しくて、時間はあっという間に過ぎました。イフタール(断食明けの食事)に間に合うよう、食事を届けました。そして、私の家族も、おいしくいただきました」。
【食事の準備をする女性の調理グループと、皆でカプサを取り分けているところ】
70歳の未亡人カルマさんは、精神障がいのある55歳の息子と二人暮らしです。火曜日に、調理グループのメンバーのヒンドゥさんとファイザさんが訪問し、翌日、料理を持ってくることを伝えられました。
【キャンプ内で食事の配達をする女性たちと、食事をうけとる人】
ヒンドゥさん、ファイザさんは「近所にこんなに困っている家庭があることを、今まで知りませんでした。食事を届けることができて、うれしいです」と言います。
カルマさんは「美味しかったです。あたたかい心遣いを受け取りました」と言いました。
ナスラさんは、6人家族です。ご主人と娘さんは、障がいを抱えています。「料理はとても美味しかったです。量も十分だったので、ご近所の他の家族にも分けました。ラマダンには、とてもよい習慣だと思います」。
身近な困っている人びとの役に立てれば、人生の意義を感じることができます。どんな小さなことでも、だれかの役に立てることを探し続けることが大切だと思います。
JENヨルダン、ザータリ難民キャンプ、生計向上支援担当
イプティハル・ハラーシェ
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JENでは、皆様からのご寄付を受け付けています。ご協力をよろしくお願いします。
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5現在75歳のウム・モンゼル。50歳で読み書きを覚え、70歳を過ぎてPCの使い方をマスターしたCOURTESY OF THE ROAD THE ROAD
難民という境遇や年齢にも怯むことなく自分の夢を追求し続ける75歳の女性の物語をお届けする。動画はいつもの「逆」で、取材する側の「ザ・ロード」の記者たちにフォーカス。ジャーナリストという新たな希望を見つけた彼らの姿は、見る者にも勇気を与える。
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「あきらめなければ、どんな難しいことだってできる。でも、あきらめたら、どんな簡単なことだってできやしない」
シリア南部ブスラ・ハリール村出身のウム・モンゼルはこう語る。現在75歳の彼女は、ザータリ難民キャンプの第9地区で暮らしている。若い頃から旺盛だった彼女の知識欲は、避難生活でも衰えることはない。「ザ・ロード」の記者が、「学ぶ」ための努力を重ねてきた彼女に取材した。
「子供の頃、両親に反対されて学校に行けなかった。教育は必要ない、どうせお嫁に行くんだからと言われてね。
20歳になって『識字教室』の存在を知り、どこかでやっていないものかと1年間、探し回った。21歳のときにようやく見つけたのだけれど、通いはじめて20日もたたないうちにその教室は終わってしまった。その後も別の教室を探し続けたけど、残念ながら見つからなかった。
結婚して子供ができてからは、テレビでよく一緒にコーランの朗読を聞いた。
コーランを読めないのが悔しくて、涙が出た。
先生方に、子供たちと共に授業に出席したいと頼んだけれど、断られてしまってね。
50歳になって、また識字教室を見つけることができて、通いはじめた。他にもたくさん私のような年配の人たちがいた。3ヵ月通って、証書をもらえたけれど、家の仕事のためにやめざるをえなかった。
子育て、畑の水やり、家畜の世話……主婦は忙しいからね。
そうこうしているうちに、シリアで内戦が起きてしまった。73歳のとき、私は1人でここザータリ難民キャンプに避難した。
あるNGOが運営する図書館に本を借りに行ったら、子供達が図書館のパソコンで遊んでいるのを見てね。事務所に行って、パソコン教室を始めてほしいと頼んだんだよ。
数ヵ月後に再びそのNGOを訪ねたら驚いたわ。パソコン教室が始まっていてね。
私も学びたいとお願いしたら、年齢のせいで一度は断られた。でも、『パソコン教室は私のアイディアだから、私にも学ぶ権利がある』と交渉したら、嬉しいことにOKしてくれた。
パソコンのOSは英語版だったから、使い方を覚えるまでは本当に大変だった。でも、いままで数えきれないほど苦労してきたからね。あきらめずに1ヵ月半の間、週2回パソコンの使い方を勉強したんだ。
もしお金があれば、復習のためにパソコンを買いたいんだけどね。
いまの夢は世界中の言葉を習うこと。大学にもぜひ行きたい。もし歩いて通わなければいけないとしても、自分の足で歩いていくよ。
知識は光、無知は闇だ。いつかシリアに帰ることができたら、光のなかで残りの人生を送りたい。それが私の夢」
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00:42-00:52 毎月、月刊誌「ザ・ロード」を配ります。大雨の日も風の強い日も。僕たちは、いつでも読者と一緒です。
00:58-01:00 僕はアフマド・アル・ナトゥール、21歳です。
01:01-01:11 月刊誌「ザ・ロード」でボランティアをしています。「ザ・ロード」は難民の生の声や困難な状況を伝えるための月刊誌です。
01:18-01:22 「ザ・ロード」がおこなうジャーナリズムのトレーニングと実習で、レポートや記事の執筆、写真の撮り方を覚えました。
01:23-01:28 難民の声を世界に届けるために。
01:31-01:34 「ザ・ロード」が希望をくれました。
01:35-01:39 将来シリアに戻ったとき、自分の家族や国を変えていくことができると。
01:44-01:47 私はランド・アルハリーリ、15歳です。
01:48-02:01 (「ザ・ロード」で働くことで)写真撮影、取材、詩や記事、レポートの書き方を習いました。
02:18-02:26 この雑誌のおかげで、いつかシリアに戻ってから祖国を再建するという希望が生まれました。
02:32-02:34 私は「ザ・ロード」が大好きです。
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シリアの昔ながらの慣習が根強く残るザータリ難民キャンプでは、近頃、「女性が自転車に乗っていいのか?」問題が人々を賑わせている。男女それぞれの熱い意見を、男性記者が取材した。
大好評の動画シリーズでは、シリアの伝統音楽「アラーダ」を復活させた音楽家たちを紹介。華やかな衣装に身を包み、高らかに民謡を歌い上げる彼らの姿からは、故郷を離れても決して伝統を絶やさないという強い決意が伝わってくる。
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「ザータリ難民キャンプで初めて自転車に乗ったときは、恥ずかしかったです。みんなが私を見ていましたから」
15歳の少女ヌール・ムスタファは、イベントで自転車に乗ったときのことをこう振り返る。だが結局のところ、彼女は大勢の目を気にせず、風を切りながらぐんぐん進んでいく自転車の爽快感を楽しむことができた。
その日は他にも15人ほど女の子がいたので、それに勇気づけられたのだ。
ヌールが参加したのは、難民キャンプで男性にだけ自転車が提供されたことに対する抗議イベントだった。
「ここで、私みたいな女の子が自転車に乗っていると、じろじろ見られるし、陰口も叩かれます。でも私は、自転車に乗ることをやめるつもりはありません」
難民キャンプでは、交通手段が限られている。それゆえ、紛争で男性家族をなくした女性だけの家庭では、自転車がないとどこにも行けない。また、ザータリ難民キャンプの敷地面積は設立当初からかなり広がった。そのため、市場からずっと離れた不便な場所に住んでいる人もいる。
ヌールもいつも自転車で買い物に行っている。女性にだって自転車が必要だということを周囲に訴えるため、これからも乗り続けるつもりだ。
彼女は、キャンプで支援活動をしている団体が主催する自転車ツアーに、いまも女友達と参加しているという。
「現実的に考えてください。キャンプでは、自転車以外の移動手段がないんです。女性が自転車に乗ってはいけないという人たちの根拠は、『伝統的にそうだったから』に過ぎません」
ウム・ラフィ(46)も、ヌールの意見に同調する。彼女もまた、自転車に乗っているといつも白い眼で見られるそうだ。
「シリアの伝統では、受け入れられないことでしょう。でも私は気にしていません。男性たちは時間を節約するために、キャンプを自転車で移動しますが、私たち女性にだって当然同じ権利があると思います。この考えが浸透するには、時間が必要でしょうけどね」
男性は、こうした女性たちの意見をどう見ているのだろうか。アブ・イッサ(52)は、シリア社会を象徴するある諺を引用した。
「食べるものは自分の好みに合わせなさい。でも、服はまわりの好みに合わせなさい」
だが、イッサは決して女性の自転車使用に反対しているわけではないようだ。
「我々の社会は保守的です。よっぽどの事情があっても、女性が自転車に乗ることを容認するのは、かなり難しいと思います。
でも私個人は、近い将来それが当たり前になればいいと考えています。女性たちの自信にもつながりますし、誰かが必要に迫られてやっていることを、否定的な目で見るべきではありませんから」
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00:20-00:40 私はジヤード・アブ・ルストム。シリアのホムスから来た。42歳。2014年からここに住んでいる。シリアにいたときのように「アラーダ楽団」を結成した。アラーダとは、愛と喜びと伝統を表現するものだ。
1:23-2:06 はじめは多くの問題に直面した。
(故郷)ホムスにあった楽団のようなものはなかったので、(ここ、ザータリ難民キャンプで)新しい楽団を作った。アレッポ、ダラー、ゴータ、ダマスカス、ホムス等、シリアの各都市から11人を集めた。簡単ではなかったが、神のご加護のもと、うまくいった。
初めは道具や衣装がそろわなかった。また、キャンプで暮らす人々の家計を考え、祝い事で演奏するときでも、ギャラを通常の4分の1に抑えた。
2:08-2:22 タンバリンが買えなかったので、ドラムから作った。グワールという仲間が、ドラムを切って、タンバリンにしたんだ。
2:53-3:02 アラブの衣装には3つのスタイルがある。「ドゥマニヤ」「ハマウィヤ」そして、フランス式だ。
3:18-3:29 パーティーを開き、タマリンドジュースを売り、衣装をそろえていった。1~2ヵ月に1着ずつ衣装を買い足していったんだ。
3:34-3:55 シリアでは、いつもこのタマリンドジュースを入れるボトルと一緒に仕事をしていた。23年間、このボトルを背中に抱えた。もともとは兄がタマリンド売りをしていたが、腰を痛めて続けられなくなった。
初めて背負ったときは、転んでしまったよ。だから3日間、家で背負い方の練習をした。この仕事を愛しているので、手放すことなど考えられない。このボトルは、いつも私と共にある。
4:27-4:50 アラブの衣装を着て通りを歩けば、世界中を両肩に乗せているような気持ちになる。
次の世代にも過去を忘れず、伝統を継承していってほしい。彼らがアラブの衣装をバカにしないように願う。我々の起源であり、受け継ぐべき遺産なのだから。
5:36-5:57 第2、第3の楽団も作りたい。私、アブ・ルストムがいなくても、ここで育った若い世代に伝統をつないでもらいたい。
そして、人々が悲しみや苦難を少しでも忘れていられるよう、幸せと喜びを広げてほしい。
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今回はヨルダンの北部イルビッド県の公立女子校に通う12歳のザイナのインタビューをご紹介します。このインタビューは、シリア難民を受け入れるコミュニティ(ホストコミュニティ)を支援するJENヨルダン事業所の現地衛生促進コーディネーターによって実施されました。
ヨルダンでは、現在も家庭や学校で月経についての正しい知識を伝えられないまま 初潮を迎えて動揺してしまう女の子が少なくありません。このインタビューでザイナが自身の経験を踏まえ、思春期の女の子たちが初潮についてもっとオープンに話し、正しい知識を身につけることが大事だと語っています。
「私の名前はザイナ。12歳です。ヨルダン北部のイルビッド県エイドゥーン地区に住んでいます。月経について自分の経験を話すのはこれが始めてです。これまで誰も月経について聞きませんでしたし、私自身も月経についての話は恥ずかしいと思っていたからです。思春期の女の子のためにも、今回私の経験についてお話したいと思います。月経について率直に話すことで何かアドバイスできればいいですし、恥ずかしがることはないと言いたいです。私の経験から学びを得てくれれば、と思います。」
「私が11歳の時、月経について何も知りませんでした。ただ、宗教の先生が『ラマダン(イスラムの断食月)中に生理であれば断食をしません」『出産後の40日間は断食をしません」と言っていたのは知っています。でも生徒が先生に月経の意味を聞いても、『大人になったらわかります」とだけ言われ、説明はしてもらえませんでした。」
「家では母と祖母は私の目前で月経の話はせず、私がわからないように特定シンボルを使って月経の話をしたり、私の存在を無視して小声で話し始めたりするので、恥ずかしくなってその場を離れていました。」
「ある日学校から帰宅すると、痛みもなく初潮が来ました。母にケガをしたと言ったら、初潮が来た若さに驚いていました。この時は、母は簡単にですが、女の子はある年齢になると初潮を迎えること、またその時の身体の仕組みについても説明してくれました。どうやったら初潮が終わるのかと母に聞いたところ、数日で終わると言い、本当に数日で終わったので、母が生理を止めてくれたとばかり思っていました。」
「生理だった時、母が父に私の初潮について話をしていたのが聞こえました。父は私のために男兄弟と別の部屋を用意してくれ、車で学校に送迎もしてくれました。次の生理が初潮から11か月経って来た時、私は母に腹を立て、生理が来たのは母のせいだと思いました。」
「この時には、母はもっときちんと説明をしてくれました。これはケガではなく、思春期の女の子には普通のことだ、と。母は初めて弟に私用の生理ナプキンを買ってくるよう頼み、弟がむき出しで手に持って帰ってきたのを見て怒っていました。この後、母はトイレに家族全員用と女性用の2つのゴミ箱を用意してくれました。生理用ナプキンと空袋も常備され、母は使用済みのナプキンをどのように捨てるかも教えてくれました。」
「母は私の通学用カバンの中に小袋に入れた生理用ナプキンを忍ばせてくれました。空袋も一緒です。そして、生理中にはお祈りをしないようにと言いました。この時、生理中に神様の名前を言うことさえとても怖く思いました。」
「私の母は素晴らしい人です。でも時折、心を開いて私と個人的なことについて話せないようです。また、私が病気や出血、普通じゃない事柄を怖がっているのを知っているので、2時間おきにトイレに行って生理用ナプキンを変えるように言います。そして常に、トイレを使う前と後の2回、トイレの便座をキレイにするように指示します。それは、私がバイ菌に感染しないためだけではなく、ほかの人にもバイ菌を残さないためです。」
「学校では、私のクラスだと誰も月経について話しません。数人の子は初潮が始まっているはずですが、こういう話をするのはとても恥ずかしいのです。一度体育の時に私の友達の一人が腹痛を訴え、トイレに行ったら初潮だとわかり泣きだしてしまいました。この時は私の通学カバンに入っていた生理用ナプキンをその友達にあげて、母が私に教えてくれたことを説明し、彼女の気持ちを落ち着かせようとしたのでした。」
【インタビューに答えるザイナ】
衛生促進コーディネーター
ウィサム・アル・ジュマイリ
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